曽代用水は、清流長良川から取水し、岐阜県関市〜美濃市の農地約1,000haを潤す幹線延長約17kmの農業用水路です。
江戸時代初期の寛文3年(1663年)、この地に移住してきた尾張藩の喜田吉右衛門(きだきちえもん)と弟の林幽閑(はやしゆうかん)は水不足の現状を見かね、地元で造り酒屋を営んでいた柴山伊兵衛(しばやまいへえ)と相談し、長良川から水を引く計画を立てました。三氏は私財のすべてを使い果たし、7年の歳月を経てようやく完成させました。
本用水は、建設から約350年が経過した現在でも、地域の農業を支える重要な施設となっています。また、曽代用水への誇りと愛着を深めるため、地元の小学生に用水の役割や、先人の功績・歴史などを学んでいただく出前授業などの取り組みを進めています。
建設から100年以上経過し、かんがい農業の発展に貢献したもの、卓越した技術により建設されたもの等、歴史的・技術的・社会的価値のあるかんがい施設を登録するために、国際かんがい排水委員会(ICID)が2014年に創設した制度です。
曽代用水は、約350年にわたって農業の発展に寄与してきたことや、江戸時代に農家主導で建設されたという全国的に
も珍しい用水であることが評価され、平成27年10月に岐阜県での登録第一号となりました。
往時この地域は、地区内を流れる長良川の河床が低く用水の取水が出来ないため、渓流水に頼った営農をしていましたが、安定した水の確保が出来ず毎年干ばつ被害に悩まされていました。また、平地の大半は林地として放置されていました。
この荒地に尾張藩から来た喜田吉右衛門、林幽閑ならびに関村の住人柴山伊兵衛が用水路を引き新田開発を計画し、1667年に工事をはじめました。
工事は、硬い岩盤を「たがね」と「金槌」で掘るという大変な工事で、着工から10年の歳月を経て約17キロの用水路が完成し、荒れ地が美しい水田に変わってきました。そして、現在も農業生産を支える重要な施設であります。
造成されて以降、修理・改良工事が行われてきています。1934年(昭和9年)から行われた導水路の改良工事、1941年(昭和16年)から1997年(平成9年)にかけて用水路本体や分水施設等の改修工事が行われてきました。これ以外にも老朽化が進んでおり、現在、機能保全対策工事によって水路の長寿命化を行ってきています。また本用水は、農業者による農業用水のみならず、親水空間や防火用水など、地域用水としても活用されており、地域住民にとっても重要な施設であります。
さらに、曽代用水の重要性や歴史を理解していただくため、小学校、土地改良区、農林事務所が連携し「出前事業」も行っています。