江戸時代初期
「深刻な水不足」
昔の関市・美濃市辺りは長良川の河床が低く取水できず、小さい渓流の水に頼っていたため、毎年干ばつの被害を受け、収穫は極めて少ないものでした。
寛文3年
(1663年)
「計画の立案」
尾張藩から移住してきた喜田吉右衛門と弟の林幽閑は水不足の現状を見かね、地元の豪農の柴山伊兵衛と一緒に、私財を投じて長良川から水を引く計画を立てました。
寛文7年
(1667年)
「起工式」
用水路の測量や敷地の買収、家屋の立退きなどの準備を進めながら、領主や奉行所などに丁寧に説明を繰り返し、ようやく許可が下りたことから、起工式を挙げることができました。
寛文8年
(1668年)
「難航する作業」
固い岩盤を掘削するため、炭や焚き木の火で岩を焼き水をかけて、岩を砕きやすくしてから、たがねと金槌で掘るという手間のかかる作業の連続でした。
寛文9年
(1669年)
寛文11年
(1671年)
寛文12年
(1672年)
延宝5年
(1677年)
「工事の完成」
計画から7年で約13kmの新線水路や支線用水路、排水路が完成しました。これらの事業に要した費用は金5,000両余でした。さらに用地買収等の費用に555両かかりました。
「度重なる困難」
私財を使い切った喜田吉右衛門は行方不明になってしまいました
大洪水による施設被害の復旧にさらに費用がかかり、収量が予想外に低いこともあり、用水の維持管理は困難を極めました。
兄を失った林幽閑は熱意を失い尾張へ帰ってしまいました。
残った柴山伊兵衛は財産を失っても水路の維持・改修を続けましたが、手に負えなくなり、ついに用水から手を引きました。
延宝7年
(1679年)
受益の4つの村で井組合を作り、お互い、お金を出し合い用水を守ることになる。
文化10年
(1813年)
昭和20年
(1945年)
昭和26年
(1951年)
平成5年
(1993年)
「3人の偉業を讃えて」
曽代用水の恵みを受けた人々がこの偉業を讃えて「井神社」を建立し、3人をまつりました。
現在でも毎年8月1日に3人への感謝を表す例大祭が行われています。
長良川の河床低下に伴い。取り入れ口を650m上流へ移設
水路3,229mの改修が完了
曽代用水土地改良区」設立
県営かんがい排水事業曽代地区として、幹線水路6,265mの改修が完了
平成15年
(2003年)
平成27年
(2015年)
隧道部685mの改修が完了
曽代用水が世界かんがい施設遺産に登録